水の音に気がついたのはいつだっただろう?
ランドリーに立つと、窓の向こうサイドガーデンからシューッと何か水の流れるような、漏れるような音がするのに気がついた。キッチンとかバスルームで水を使っていてそれが水道管を流れる音か、外に設置された湯沸かし器の関係かな、と考えた。
2、3日するとその音は少し大きくなっていた。耳を欹てれば、どうやら隣家との壁の向こうから聞こえてくるようだった。ああ、隣の家のスプリンクラーの音だったのか。去年は目覚めたら1階が水に浸っていた。そのときの経験のせいで水の音にはどうしても神経質になってしまう。
その後雨が続いたので判然とはしなかったのだけど、気を付けてみると、朝も昼も夜もずっとその音はしているようだった。さすがに隣家のスプリンクラーにしてはおかしいと気がついた。毎日24時間1日中、庭に水をやり続けるなんてことがあるだろうか?
それにしても、滅多に足を踏み入れることもないサイドガーデンはろくに手入れもされず、芝や雑草も伸び放題。蛇とか蜘蛛とかが生息していそうで不気味な感じ。それでも娘が雨の中、傘を差して壁に絡まる蔦を払いつつ水音の原因を探りに行ってくれた。暫くすると、音は隣の家からするようだと戻ってきた。
やっぱり、隣んち、水漏れしてるんだ…。でもって、我が家同様、お隣の人もあの辺りには滅多に出ないようだから気づいてないのかもしれないナ。
教えてあげたかったけど、電話番号は知らないし、コロナ禍のロックダウン中でお家訪問はご法度。5千ドルを超す(なんと45万円近く取られるのよ!?) 法外な罰金が課せられてしまう。フェンス越に叫んであげた方がいいのかなぁ?とも思ったけれど、さすがにそれは憚られた。お隣さん、早く気がつけばいいのになぁ~
などと案じていたら翌日の夜、音が俄然大きくなっていた。外は雨だというのに、もはや耳を欹てる必要もなく、すぐ傍から聞こえてくるような感じである。
確かめに行こうかと思ったけれど外は暗いし、雨も降っている。骨折した右足は完治には遠く、よたよた右足を引きずり傘を差し、懐中電灯の明かりを頼りに蔦を掻き分け、雑草と小石の上を歩いてゆく気にはとてもなれない。かといって子どもたちに頼むのも気が引けた。とにかく夜が明けて、朝になったら見に行こうと心に誓う。
翌朝―
果たして、漏れていたのは我が家のパイプだった。外のデカイ湯沸かし器に何本も繋がれたパイプの辺りから勢いよく水が噴き出していたのだ。
「でも前に見に来たときには大丈夫だったのになぁ…」と、娘が首を傾げている。
とにかくホーム・エマージェンシーの会社に電話を入れた。去年、夜中に洗濯機のパイプが外れて家中水浸しになったとき、最初にお世話になった会社である。これで少なくとも水は止まるハズである。
1時間ほどでそこが手配してくれた配管工の方が駆けつけてくれた。ホッとしたのも束の間― 配管工のおじさん(といっても自分よりたぶん年下)は現場を見るや首を振った。
水は湯沸かし器に繋がれた外のパイプからではなく、家の中のパイプから漏れている。それが勢いを増してレンガの壁を突き破り噴き出してきたのだ。たぶんこの間の地震のせいで水道管が破損して、こういう事態になったのだろう、と。
さっきは慌てていて気づかなかったけど、改めて見てみれば確かに水は湯沸かし器のパイプではなく、レンガの壁の亀裂から水飛沫をあげていた。だから数日前に見に行ってくれた娘は気づかなかったのだ。きっとあのときはまだ壁を突き破るほどには破損していなかったのだろう。
実際、メルボルンでは十日ほど前に珍しく大きな地震があったのだった。メルボルンで地震なんて!? と驚いてしまったけれど、その地震はビクトリア州史上稀にみるほど大きくて、倒壊してしまった建物さえあったのだ。地震のせいで停電した地域もあったそうで、友達の家も停電したという。我が家は水晶玉が転がったくらいで大した被害もなく済んだと思っていたけれど、実はあのとき壁の中では水道管が圧迫されて破損してしまっていたのだった!?
原因はわかったものの、対処するにはまずレンガの壁を壊さなければならない、とおじさんはすまなそうに告げた。今はその道具もないし、壁を壊して調べてみないと状況もわからず、修理には時間がかかるだろう。自分はホーム・エマージェンシーの会社から手配されて来たけれど、勤務先の配管工事会社は週末休みなので、今ここでこの修理をするのは無理だ。別に料金がかかるけど自分の会社に修理を頼むなら予約を入れますよ、と。
いくらくらいかかるのかと聞いてみたけれど、壁を壊して被害状況を見るまではわからないとのこと。とにかく会社の開く月曜までは大元の元栓を締めて凌ぐしかないと、前庭にある元栓の場所と締め方を教えてくれた。そうして、帰ってしまったのだった。ひゅるるる~
水は相変わらずレンガの壁から朗らかに噴き出している。
そう、あいにくその日は土曜日だった。どうして我が家の水害はいつも週末にあたるのか? 思い返せば去年、家電洪水に見舞われたのは日曜の朝、天井の水漏れに気がついたのは土曜の朝だった。そうして週末たいていの配管工事会社はお休みである。再度、ひゅるるる~
マインド・ボディ・スピリット・フェスティバルで霊視してもらったときに言われたことを思い出した。もうずいぶんと前の話になるけれど、NSW州警察の捜査を手伝うこともあるという霊能者だった。
あなた、今住んでる家から、もうすぐ引っ越すことになると思う。今の家は何かがおかしいの。Water Element、水に関することで。家の中を走る水道管か水脈か、何かわからないけれど水害の相が出ているよ、と。
引っ越しなんて面倒だし、その後も相変わらずこの家に居座っているけれど、実際あの後2回も洪水に見舞われたのだった。ここ1年半なんて右手の指では数えきれないほど配管工のお世話になっているし、やっぱここってば水難の・・・。いやいや、単に家が古くなって老朽化したせいだろうけど。
とりあえずさっきの方に予約を頼んではいたものの、だんだんと不安になってきた。水の勢いはやはり時間が経つほど増してくる。水を使うたびに前庭に出て行って、大元の元栓をいちいち開け閉めして使うとしても、果たして月曜までもつのだろうか? あの配管工の方は「<水漏れ>ということで優先されるハズだから、たぶん月曜には修理してもらえるだろう」と言っていたけれど、まんいち火曜とか水曜になってしまったら…。このままだと水の勢いが加速して…
思わずググって広告の最初に出てきた、「24時間7日間休まず営業」のキャッチを背負った配管工事会社に電話を入れてしまった。週末でCall Out Feeも割増しになって、それだけで98ドルがかかるとのこと。高いだろ、それ! 来てもらうだけで大枚払うっていうのは…。迷ったものの、背に腹は代えられない、と思い切って頼むことにした。
2時間半ほどで配管工の方がやって来た。前回の人当たりのいいおじさんとは対照的に、ムッチョマッチョな体にタトゥー満載、強面に鼻ピアスの兄ちゃんが玄関先にブスっとして立っていた。外見で人を判断してはいけないが、道に迷っても私はたぶん彼に聞くことはないだろう。
鼻ピアスのムッチョな兄ちゃんは件の場所だけ聞くと、一人でじっくり状況を調べたいからと行ってしまった。暫くして戻ってくると言った。
「今ボスと話したんだけど、レンガの壁を壊してパイプを直さなきゃならないから、料金は990ドル。だけど壊したレンガは俺じゃ直せないから、大工かハンディマンに直してもらえばいい」
直してもらえばいいって、別料金でっ!? 990ドルって…、千ドルの一歩手前っ!?
「そんなにするんですかっ!? そのうえ大工さんの工賃までっ!?」
呆然とする私に言い訳するかのように鼻ピアスの兄ちゃんはぼそぼそと付け足した。
「でも週末だし。レンガだし。俺、大工じゃないし…」
それからボスに聞いてみるとスマホを取り出した。
「ボスが現金で払えるなら、850ドルでいいって言ってるけど」
「現金ですか・・・。850ドルって、まさかコールアウト費は込みなんでしょうねっ」と、確かめた声が我知らず裏返ってしまった。
動揺しつつ、今朝配管工のおじさんが言っていた工事費のことを思い出した。パイプの破損状況がわからないから見積りは出せないと言ったけど、確か1時間当たりの工事費が185ドル、その後は15分単位で35ドルかかるとか言っていた。なら、2時間かかったとしても400ドルはしない。やはりこの額は…。
「もういいです…」と断って、コールアウト費を支払うため財布を取りに行った。ついでに今朝おじさんが話していた工賃を確認しようと娘を呼んだ。娘と戻ってみると、鼻ピアスの兄ちゃんが電話でまたボスと話しているところだった。
「ボスが特別に、750ドルでいいって言っている。コールアウト費込みで750ドル。ただし、現金で。俺がもうここに来ているから、特別の特別でまけるってさ」
顔を見合わせる私たち親子にダメ押しをするかのように、恩着せがましく兄ちゃんは畳みかけてくる。
「現金で750ドルぽっきり。特別の特別料金だぜ」
特別の特別料金だと言われても、それが高いものかお得なものなのか…。壁の向こう、破損したパイプを見るまでは被害状況がわからないってこともあったけど、そもそも配管工事市場の相場がよく分からないのだ。私にわかることは只一つ。
この人たち、ボッテルよね。この値の下げ方、間違いなくボッテルだろ。
なのに、心配性の自分が顔を出してしまった。でも週末このままずっと壁から水が噴き出していても、いいの?と。今朝のおじさんも言ってたけど、予約した会社が月曜に来てくれるって保証はないんだよ。それまでパイプの破損がもつという保証も、そっちの会社の方が安いっていう保証も…。破損が酷くなって結局、修理にもっとかかっちゃうってことも考えられるんだよ、と。
ひるんだ心にトドメを差すかのように面倒臭がりの自分が問いかけてきた。ちょっとくらいボラレていても、今ここで直しちゃった方が楽なんじゃないの?と。
葛藤する私を見兼ねたように、やはり面倒臭がり遺伝子を引き継いだ娘が肩を押してくれた。
「ママ、いいんじゃないの。まけてくれるって言ってるんだし。これで直してもらえるなら安心だもの」、と。
腑に落ちないながらも、その数分後には商店街へと車を走らせていた。商店街のATMで現金を引き出したものの、今更ながら「ボラレ感」に圧倒されていた。
頭の中をシングル・オージーの女友達の愚痴がぐるぐると駆け巡っている。
「まったく。プラマーもカーペンターも、建築現場は男社会だから、女だと甘く見てすぐボッタクルのよ」とか、
「女だと相場がわかんないと思って、ボルからね」とか。
そんな愚痴を聞くたびに、生まれも育ちもオージーの彼女たちがそう言っているのだから、英語を母国語としない外国人で、相場もろくにわからないような自分が、ボラレないようにするのは至難の業だな、と常々思ってはいた。それにしても…
日本に住んでいたらどうだったんだろう?とふと思った。日本でもこういうことでボラレるってことはあるんだろうか?
大阪旅行でお世話になった鍵屋のおじさんが思い出された。会社のホームページにはスーツケース1個で料金は8千円と書かれていて、料金に関しては電話でも確認したのに、実際会ってみると、料金は鍵穴の数で加算されるのだ(!?)とか言ってきた。私のスーツケースには鍵穴が3か所についているから、3つで2万4千円!とか吹っ掛けられて憤慨したものだった。
じゃあ、夫が生きていたらどうだったろう? 彼ならボラレなかっただろうかとふと思う。
いいや、たぶん彼ならもっとボラレタはずだ。ダディンは人前で紳士然として振舞いたい方で、「何それ高いだろ」とか言ってネギるタイプでは全然なかった。何より忙しかったから、相場をリサーチすることもなく、言われた額をすんなり支払っていたと思われる。もしかしたら今日も言われるままに最初の言い値で980ドルをすんなりと支払ってしまったかもしれないナ。
そう考えたら少しだけ気分が楽になった。
ATMでお金を引き落とした後、ついでにカフェラッテをテイクアウェイしてから戻った。最初は990ドルとか言っていたのだから、きっと工事は半日か、場合によっては1日仕事になるんだろうから。
現金とカフェラッテを手に戻ると、ちょうど裏庭のドアから廊下を歩いてくる鼻ピアスにタトゥーの兄ちゃんと出くわした。目が合うと、思いもよらず、彼は照れたようににっこりと笑った。強面の彼が見せた初めての笑顔だった。人懐っこい笑顔に、ムッチョマッチョな強面が突然ずいぶんと幼く見えた。
子どもたちには配管工のひとに呼ばれたらすぐ行けるよう階下にいるように頼んだので、二人とも裏庭に面したファミリールームでパソコンを開いていた。
「あのひと何度もここを行ったり来たりしてるけど、一度も呼ばれなかったよ」と、娘。
「必要な工具を探していたんでしょ、きっと。彼も大変なのよ。大掛かりな作業みたいだものね」と、私。
だけどそれから15分と経たずに、「終わったよ」と兄ちゃんがやって来た。
えっ、もう!? ずいぶんと早いじゃないの…。
面食らう私をよそに、彼は来たときの仏頂面が嘘のように愛想よく告げた。
「水道の元栓締めて作業したんで、最初ボコボコ空気の入った水が出てくるかもしれないけど、ノー・ウォーリィ! 暫く流してたら、直るから。念のため、どの蛇口からも水が出るか試してくれる?」
そうして、すべての蛇口から正常に水が流れ出したのを確認すると、配管工の兄ちゃんは帰っていった。
「何か後でまだ問題あったら、タダで直すから連絡してくれ」と、去ってゆく彼のムッチョな後ろ姿を憮然として見送ってしまった。最後に付け足された「No Charge無料で」という言葉が空しく耳の奥に反響していた。
時計を見れば、鼻ピアスのにいちゃんが我が家に来てから、料金のことで揉めていた時間を入れても、1時間と経っていないのだ。ということは、月曜日まで待っていれば185ドルとかで修理できたってワケで…。
どんよりした気持ちで、思わず配管工事の平均的料金を今頃ググってしまった。メルボルンの1時間当たりの平均工賃は、45ドルから200ドルだという。って、それにしても、平均値の幅、広っ!
これを以前調べたときには平均工賃の幅が広すぎて参考にならないと思ったけれど、今回は明らかに参考になった。
あの会社、ボリ過ぎだろ。週末とはいえ、最高工賃の更に3.5倍もボッただろっ!
自分の甘さが悔やまれた。だけど思えばあのとき被害状況はレンガの壁に隠されていてわからなかったのだ。仕方ないといえば仕方なかったのかもしれないナ。
ああ、だから!と、合点がいった。そうか、だからあのタイミングでサインを頼んできたのだ。ふつうは配管工事が終わった後にサインを求められるのだけど、今回の会社は750ドルでの修理を承諾した途端に「じゃあ、ここに」と、サインを要求してきたのだった。あれは、あっという間に仕事が終わってしまった場合に料金の支払いで揉めることのないよう、先手を打っていたのだろう。キーッ!
腹が立ったものの、すべてはもう後の祭りである。あの鼻ピアスにタトゥー満載の兄ちゃんに、今更いくら腹を立てたところで、後悔先に立たず。それで払い戻しがされるわけじゃなし。それに彼は単にボスの指示で労働していただけだし。しかも週末に…。うちのパイプを(値段はともかく)直してくれて、どうもありがとう!である。会社の方は忌々しいものの、今更ここで怒っていても始まらない。実際週末は賃金も高くなるし、コロナのご時世で経営もいろいろと大変なんだろうし…。
今度こういうことがあったら、どう対処しようか?と予防策を考え、脱力感に襲われてしまった。こんなとき絶対に考えてはいけないことは、その額だけあったら何が買えただろう?とか、何ができただろう?とか、そういうことだ。今、自分に問いかけねばならないことは、一月後、一年後、十年後― 果たして自分は未だこのことを後悔しているだろうか?ということなんだ。
そうして、死ぬときには? 死に際に今日の日を思い出して後悔するんだろうか?と。
ほぉら、人生の終末に、あああのとき月曜まで待っていれば…とか思い出して後悔するような類の記憶じゃあなかったでしょうが。
結局のところ、日々是行也。これもサムサラなこの世に生きる「里の行」だと割り切って、心に平安を取り戻そう。さあ、平常心―
その夜、ラウンドリーに立って、耳を欹てたけれど、もう水の音もせず、辺りは静寂に包まれていた。少なくとも水音は止んだのだった。
鼻ピアスの兄ちゃんが壊していった壁の穴には、ネズミでも入ってきたらマズイので、とりあえず物置にあったレンガにタオルを巻いて塞いでおいた。ああ、次はハンディマンか大工さんを探さなくては…。
写真は、我が家の裏庭。メルボルンは春爛漫。サツキもガーデニアも満開で、裏庭が一番華やぐ季節です。
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