先日、息子がジャバーニーズスクール中等部を卒業した。メルボルンで暮らす日本人が日本の教科書で勉強できる土曜日だけの補習校で、通称土曜校と呼ばれている。そこに息子は幼稚園から通っているので、11年間もお世話になったわけだ。
去年はコロナ禍で卒業式もオンラインだったそうだけど、今年はワクチン普及のお陰で無事に卒業式をすることができた。とはいえ式には来賓も在校生の姿もなく、保護者の参加は各家庭から一人だけと参加者数も制限されて、式も簡易化されていた。それでもこのご時世、できただけで恵まれているというものだ。
お陰で私も一人ひとり壇上に上がって、卒業証書を受け取る子どもたちの姿を見守ることができた。式辞や祝辞の後は卒業生全員がそれぞれに土曜校での思い出を語った。恒例の子どもたちのスライドショーも見ることができた。幼いころと現在の写真に感謝の言葉と将来の夢が綴られたスライドが一人ひとり流れるのを、感慨深く眺めてしまった。入園したときには3クラスあったのに今では2クラスに減ってしまったけれど、殆どが幼稚園からずっと一緒の子どもたちである。み~んな大きくなった、立派に成長したなぁと、しみじみ。
改めて感慨深かったのは、これらが全て日本語で行われたこと。ジャパニーズスクールなのだから当たり前のことではあるのだけれども、大半がオーストラリアで生まれてオーストラリアで育ったことを思えば、親としてはやはり胸が熱くなる。
夫とは東京で出会って、国際結婚をしてメルボルンに移住した。その自分たちの子がこんなふうに成長できるとは正直、思っていなかった。
ふっとメルボルンに来たばかりのころ親しくなった友達のことを思い出した。
ポーランド出身の彼女とは移民の英語学校で知り合った。20代半ばにポーランド人の夫と二人でメルボルンに移住して20年になるそうで、英語も流暢だった。自分の「イレーン」というポーランドの名前が、オーストラリアでは「アイリーン」と英語流に発音されてしまうことが多いのだと零していた。
電車が同じだったので一緒に帰るようになって、時々カフェに寄り道した。お家でポーランドの手料理を振舞ってくれたこともあったし、ポーランドレストランに連れて行ってくれたこともあった。家ではもっぱらポーランド料理だと言っていたっけ。ポーランド食も単に洋食と認識していたような自分の舌には猫に小判、豚に…なのだけど。食に限らず、よくポーランドの話をしていた。
それは何も彼女ばかりではなかった。移民の英語教室にヨーロッパやアジア、中東、アフリカ、南米と世界中から集まってきた十数人の生徒たちは、ならどうしてわざわざオーストラリアまで移住してきたのかと思うほど、自国の文化にこだわっていた。それはここに来て間もない人ばかりではなく、何十年も住んだ移民も同様だった。
ランチともなると皆エスニック色たっぷりのランチボックスを開いていた。移住歴の長~いドイツ人のおじいさんが、メルボルンでドイツのパンを買うのがいかに困難かを力説していたことを思い出す。ちなみに奥さんはオージーで、パンはドイツもどきではなくドイツそのままの本格的なパンで。
移住して半年にも満たなかった当時の私には、彼らの気持ちは今一つピンとこなかったけれど、あれから20年以上の経った今となっては良ぉぉぉくわかる。
イレーンには大学生と高校生の息子がいた。二人ともオーストラリア生まれのオーストラリア育ち。ハンサムでスポーツ万能なのだと自慢していたけれど、そんな息子たちの愚痴を寂しげに言っていたことがあった。
家庭ではポーランド語を使い、幼いころから息子たちにポーランド語で話しかけてきたのに、現地の小学校に通うようになってから、いつのまにか「オージーボーイズ」(と彼女は言っていた)になってしまった、と。もちろんオーストラリア人なのだから当たり前ではあるのだけど、高校生の息子など「ピヨール」という素敵なポーランドの名前を付けてあげたのに、いつの間にか自分で勝手に「ピーター」という「英語の名前」に変えてしまったんだそうだ。
法的には知らないけれど、子どもが自分で勝手に名前を変えてしまったという話に、当時の私は驚いたものだった。同時に、そういうものなのかなぁとも思った。移民は自分の祖国にこだわるが、2世はその国に同化するとはよく聞く話だったから。
きっと将来、オーストラリア人の夫と日本人の自分との間に生まれて、この国で育つ子どもたちもそうなるんだろうなぁ、と。ただ私の両親が孫たちと話ができないという事態だけは避けたいから日本語は教えてくれと言っていたので、教えようと思いつつ。
それが、蓋を開けてみれば…
娘も息子も、日本語がわかるどころか、日本語と日本文化にどっぷりである。二人とも暇があれば日本語の小説や漫画本を読んで、「鬼滅の刃」とかアニメやテレビを見て、日本で買ってきた「ファイヤーエンブレム」とか「スマッシュブラザーズ」とかのゲームを姉弟でキャアキャア言いながらやっている。
子どもたちが生まれたとき、夫の日本語と私の英語という恐るべき環境で育ってしまっては子どもたちが気の毒だからと彼は英語、私は日本語で話しかけようと決めた。バイリンガルの子に育つようにと願って、外の環境が英語のぶん、せめてテレビは日本のDVDを見せることにした。すると子どもたちはアンパンマンやドラえもんポケモンが大好きになって、自然に日本の文化にハマっていった。姉弟間で遊ぶときにはいつも日本語だった。
食事はたいてい私が作っていたので、ほとんど日本食(ちなみに移住して数年で私も移民クラスに集っていた皆に負けず劣らず自国食の大好きな人間に変貌していた)。自然、子どもたちはケーキより和菓子、ポテチよりはお煎餅が大好きで、パンより断然ご飯党に。雨量の少ないオーストラリアで米の生産量を減らすことが決まり、かつコロナ禍で米の輸入量が激減したときなど、白米がなくては生きていけないと、私より子どもたちの方が焦っていたほどで。あのときは家族から「ご飯がないならパンを食べればいいじゃなぁい」などとは絶対に言われない我が身をしみじみと嬉しく思ったものだ。
Multicultuarism多文化主義をとって久しいオーストラリアは、寛容で良い国だと思う。だけどやはり子どもたちと自分の育った文化を共有できるというのは嬉しいことだ。今は一緒に日本の映画やドラマを見てハラハラしたり、陣内智則さんとかサンドウィッチマンとかを観てふつーに笑ったり(お笑い好きな息子のお陰で芸人さんにもちょっと詳しくなった?のよ)。本も、私は読んでいない「下町ロケット」の話を娘がしてくれたり、太宰が好きな息子が「人間失格」の感想を話に来たり、先日など内館牧子さんの「どうせすぐ死ぬんだから」について話しに来たし(まさかあの本を息子も読むとは思わなんだ…)。
文化の共有って、なんてありがたいんだろう。
これも21世紀に育った子どもたちであればこそ、なのかもしれないな。たとえばポーランド人のイレーンが子どもたちをオーストラリアで育てた80年代90年代では考えられなかったことだと思う。何よりインターネットのお陰で、海外の文化に手軽に触れられるようになったし。グローバリゼーションで海外渡航も身近になって、一時帰国もしやすくなったし。
けれどそれ以上に、やはり土曜校の存在が大きかったと思うのだ。いくら家庭で「ジャパン」していても、外に学校というコミュニティがなかったら、こうはいかなかっただろう。たとえ週に一日だけの学校であっても、子どもたちがそこから得たものは大きかったと思う。
土曜校は非営利団体なので、親も学校運営に関わらなくてはならず大変だったけど(ボランティア活動がめちゃくちゃ多かったのよ)、何より子どもたちががんばってくれたのだった。現地校の子どもたちは週末お休みなのに、土曜日に別の学校に通う。そのうえ文部科学省の学習カリキュラムを1週間でやるため、必然的に宿題の量も半端じゃくなくなる。それをよくもまあ11年間も続けてくれたもんだと思う。
ほんとうに、ご苦労様でした。ムゥ、卒業おめでとう!
といっても、今週は土曜校の入学式。息子は2年間の高校部門も続けたいというのでこのまま通い続け、友達と一緒に今年も生徒会活動も続けるのだと張り切っている。娘の方も大学で勉強する傍ら土曜校のアシスタント教員をさせてもらっている。姉弟共々まだまだ土曜校とのご縁が続いていて、ありがたいことだと思う。
4月―
メルボルンは紅葉が始まりますが、日本は桜。入学式の季節ですね。新しい生活に入る皆様の未来が、桜色のしあわせに彩られますように。
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